場所・島根県那賀郡旭町都川〜甑(現在は越木)
甑坂(コシキサカ)
行ゆく覚える渓雲の脚下に生ずるを
危巌 水を夾(はさ)んで一橋横たう
登登の峡路 天 将に黒からんとす
聞断す渓童の紙を搗(つ)くうの声
T 正保(しょうほう)…1647年
1647年…第110代 後光明(ごこうみょう)天皇、在位…寛永(かんえい)1643年〜承応(じょうおう)1654年
第134代 摂政 九条道房
第3代 征夷大将軍 徳川家光 1623〜1651
U 馬子(まご)…おもに、人を乗せた馬をひく人
V 遊行寺(ゆぎょうじ)藤沢山無量光院清浄光寺…時宗総本山
〇創立…正中2年(1325年) 4代、呑海 上人(どんかい しょうにん)によって建てられる
〇場所…神奈川県藤沢市西富1-8-11
〇遊行(ゆぎょう)…布教の全国行脚
〇時宗(じしゅう)…一遍 上人(いっぺん しょうにん)によって開かれる
〇上人(しょうにん)…坊さんを尊敬した呼び名
W 頼 杏坪(らい きょうへい)…宝暦6年(1756年)〜天保5年(1834年)
〇広島藩士子弟教育にあたる、儒学を政治に活かし出世する
X 頼 山陽(らい さんよう)…安永9年(1780年)〜天保3年(1832年)
〇代表的な漢学者の一人で、日本初の歴史書、「日本外史」は有名(漢文と日本語の俗語で叙述)
Y 有福温泉(ありふく おんせん)
〇場所…島根県江津市有福温泉町
「石州一の難所 赤谷(あかだに)」
今市(旭町)と市木(瑞穂町)の中間である赤谷に、参勤交代のための茶屋がおかれた。
場所は、屋号(中間)の庭先で、茶屋床という地名が残っている。茶屋の規模はわずかに藩主と側近が腰掛
けられる 程度の建物だったようである。ここは津和野藩領であり、浜田藩主通行の際は津和野藩の代官が出迎えていた。
石浦峠から都川川を挟んで甑坂(こしきさか)の間は、名だたる難所で、戦国時代の武将、毛利元就が「石州一の難 所」といっ て、ここをさけて通ったこと、参勤交代の籠を、前曳(まえびき)きといって二本の綱をつけて四人がかりで引 きあげたことなど が言い伝えられている。
川をわたって中峠への登り向坂(むかいさか)に百メートルばかり石畳が敷かれている。橋は正保の国絵図には描か れておら ず、架けられたのはそれ以後のようである。むかし馬子たちがくちずさんだ里謡に
可部じゃ可部坂、市木じゃ三坂
こしき赤谷なきゃよかろ
可部じゃ可部坂、市木じゃ三坂
こわいこしき坂なきゃよかろ
がある。
藤沢遊行寺(ゆぎょうじ)の歴代遊行上人(ゆぎょうしょうにん)、伊能忠敬測量隊、広島藩儒臣(じゅしん)、頼 杏坪(らい きょうへい)がここを通り、日記や紀行文を著(あらわ)している。杏坪(きょうへい)の甥(おい)で、幕末勤王(きんのう)の志士がきそって読んだといわれる「日本外史」を著(あらわ)した、頼 山陽(らい さんよう)も、若き日、杏坪(きょうへい)に連れられて有福温泉に湯治に出かけ、次の詩を残している。
行覚渓雲脚下生
危巌夾水一橋横
登登峡路天将黒
聞断渓童搗紙声
石州街道 甑坂