故郷探訪


司馬遼太郎氏が石見地方を訪れ、こんな碑文を残されました。(浜田藩追懐の碑・浜田城址の碑文)

石見国は、山多く、岩骨が海にちらばり、岩根に白波がたぎっている。
石見人はよく自然に耐え、頼るべきは、おのれの剛毅(ごうき)と質朴と、たがいに対する信のみという暮らしをつづけてきた。石見人は誇りたかく、その誇るべき根拠は、ただ石見人であることなのである…

どのように翻訳するのでしょうか?当然の事ながら石見人の特徴を表現されたと思いますが、奥深く考えてみますと、なんら特徴の無いのが石見人なのでしょうか?
凡人の私にはなんとも理解しがたい司馬遼太郎先生の碑文でございます。

…石見人は誇りたかく、その誇るべき根拠は、ただ石見人であることなのである…
※1  …古田重治… 1619年、伊勢国松坂城から5万4千石で浜田の地へ、浜田城を9ヶ月で完成させたと聞きます。
※2  …道普請… 道を作ったり直したりすること。
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「参勤交代と旧広島街道」

旧広島街道は古田氏(※1)以来、歴代浜田藩主の参勤交代の道であった。
関ヶ原の戦いに勝利し、政権を樹立した徳川幕府は、無断で城を改修してはならないこと、大名間で勝手に婚姻をしてはいけないこと、河川改修や日光東照宮造営等の義務を課した「武家諸法度」により諸国の大名の統制を図った。
参勤交代制度もその一つで、寛永十二年(1635年)三大将軍家光の時に武家諸法度が改定され、すべての大名が妻子を人質として江戸へ差し出し、一年交替に江戸と国元を往復する制度がはっきりと義務化されたのである。
参勤交代制度は、支配する者と支配される者を明確にすることが最大の目的であったといわれている。
大名行列は石高(こくだか)に応じて格式が決められており、外様大名(とざまだいみょう)ほど遠国で石高が高かったため負担も大きかった。浜田藩の行列の人数は百二十人程度であったという。ちなみに加賀前田藩の行列は四千人、薩摩島津藩は千二百五十人といわれている。
一日の行程はおよそ十里(40Km)で、第一日目は浜田を出発し今市(旭町)を経て市木(瑞穂町)に宿泊した。
目的地の江戸へは、約一ヶ月の長旅である。藩主が休むところを本陣といい、今市と市木に設けられた。また途中には茶屋(浜田市辻堂、金城町七つ町、旭町赤谷)が置かれた。
参勤交代の費用、江戸と国元での二重暮らしは、藩の財政に大きな負担をもたらした。

一方参勤交代は大名ばかりでなく、庶民にとっても大きな負担をもたらした。行列が通行する際は、道普講(みちぶしん)(※2)に何日も駆り出されたり、士農工商の身分制度のもとに、行列に行き交うと行列が行過ぎるまで土下座をしなければならなかったこと等、参勤交代の様はまさに封建制度の縮図であった。反面、参勤交代がもたらした効果もある。全国の街道が整備されるにつれて往来が盛んになり、物資の流通は勿論、江戸や上方の文化が地方にもたらされたことである。炉製鉄によって生産された鉄や石見半紙はこの街道を利用して運ばれ、庶民はお伊勢参りや西国三十三ヶ所巡り、四国八十八ヶ所巡りに出掛けたのである。
文責    佐伯 充男
 

参勤交代